萩の寺について
大乗会のことば
六輝(ろっき)のご説明
六輝とは、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六つからなる暦法の一種で、六曜星(ろくようせい)、あるいは略して六曜(ろくよう)といいます。
各名称、意味をご参考にして、よりよき日々をお送り下さい。
各名称、意味をご参考にして、よりよき日々をお送り下さい。
- ●先勝●
-
先勝日(せんかちひ)の略称で「せんしょう」ともいいます。
何事も早い時間にすれば勝つという日で、急用・訴訟などに吉の日とされています。
ただし、午後からは凶となります。 - ●友引●
-
友引日(ともびきひ)の略称。
この日葬式を行うと、だれかが死を招くおそれがあるといわれています。
午前中と夕刻と夜は相引きで勝負なしの吉日。
昼は凶とされています。 - ●先負●
-
先負日(せんまけひ)の略称で「せんぷ」ともいいます。
急用や公事などに悪いといわれる日で、物事をするのには午前は悪く、午後は吉といわれています。 - ●仏滅●
-
仏滅日(ぶつめつひ)の略称。
勝負なしの日であり、この日、開店、移転など何事を行うにしても凶であり悪日とされています。 - ●大安●
-
大安日(たいあんひ)の略称で「だいあん」ともいいます。
旅行・開店・結婚など万事によしとされている吉日です。 - ●赤口●
-
赤口日(じゃっこうひ)の略称。
この日は何事をするのも大凶です。
ただし、正午のみ吉とされています。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
貧者の七施
貧者の七施。
七回目は『房舎施』についてお話ししましょう。
※※房舎施(ぼうしゃせ)※※
困っている人、必要としている人に場所、空間、宿を提供し、労をねぎらう。
誰に対してでも一宿一飯の施しをするという事は、現在では難しい事なのかもしれません。
ですが、その心持ちは大切です。
自宅に迎え入れて休んでいただいたり、雨露をしのいでもらったり。
四国にはお遍路さんをもてなす『お接待』という風習も残っています。
労をねぎらう、おもてなしをする心が大切だということです。
七回目は『房舎施』についてお話ししましょう。
※※房舎施(ぼうしゃせ)※※
困っている人、必要としている人に場所、空間、宿を提供し、労をねぎらう。
誰に対してでも一宿一飯の施しをするという事は、現在では難しい事なのかもしれません。
ですが、その心持ちは大切です。
自宅に迎え入れて休んでいただいたり、雨露をしのいでもらったり。
四国にはお遍路さんをもてなす『お接待』という風習も残っています。
労をねぎらう、おもてなしをする心が大切だということです。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
貧者の七施
貧者の七施。
六回目は『牀座施』についてお話ししましょう。
※※牀座施(しょうざせ)※※
床座施(しょうざせ)ともいう。
譲り合いの心。
席や場所を譲り合ったり、意見がぶつかった時に相手に譲る心。
意地や、我慢、プライド、自己主張で周りが見えなくなっていませんか?
他人に譲る。
そこから新しい景色が見えてくるものです。
相手に、自分の強さを見せつけたいが為に通す意見や行動には何一つ誇れるものなどありません。
本当に強い人間とは、“譲る”心の強さを持った人間なのではないでしょうか。
六回目は『牀座施』についてお話ししましょう。
※※牀座施(しょうざせ)※※
床座施(しょうざせ)ともいう。
譲り合いの心。
席や場所を譲り合ったり、意見がぶつかった時に相手に譲る心。
意地や、我慢、プライド、自己主張で周りが見えなくなっていませんか?
他人に譲る。
そこから新しい景色が見えてくるものです。
相手に、自分の強さを見せつけたいが為に通す意見や行動には何一つ誇れるものなどありません。
本当に強い人間とは、“譲る”心の強さを持った人間なのではないでしょうか。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
貧者の七施
貧者の七施。
五回目は『心施』についてお話ししましょう。
※※心施(しんせ)※※
『ありがとう』や『すみません』等の感謝の言葉や、『大丈夫』『元気を出して』等、相手の心を汲み、いたわる言葉。
心からの感謝の言葉や思いやる言葉は、そのたった一言で、相手はその苦労が報われた気持ちになります。
たった一言の『ありがとう』で、相手も自分も幸せになることが出来るのです。
五回目は『心施』についてお話ししましょう。
※※心施(しんせ)※※
『ありがとう』や『すみません』等の感謝の言葉や、『大丈夫』『元気を出して』等、相手の心を汲み、いたわる言葉。
心からの感謝の言葉や思いやる言葉は、そのたった一言で、相手はその苦労が報われた気持ちになります。
たった一言の『ありがとう』で、相手も自分も幸せになることが出来るのです。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
貧者の七施
貧者の七施。
四回目は『身施』についてお話ししましょう。
※※身施(しんせ)※※
身体を使って、誰かのために何かをすること。
身体を使って、誰かや、社会、何かの役に立つこと。
思いやりの心を身体で表現する。
その心に恩返しをするということ。
四回目は『身施』についてお話ししましょう。
※※身施(しんせ)※※
身体を使って、誰かのために何かをすること。
身体を使って、誰かや、社会、何かの役に立つこと。
思いやりの心を身体で表現する。
その心に恩返しをするということ。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
貧者の七施
貧者の七施。
三回目は『愛語施』についてお話ししましょう。
※※愛語施(あいごせ)※※
語辞施(ごんじせ)ともいう。
相手を思いやる、心からの温かい優しい言葉。いたわる言葉。励ましの言葉。
高価な物を与えられるより、貴方を思い、発せられた心からの言葉に救われた経験はありませんか?
心からの言葉は、何物にも代えられないものです。心の奥に深く入り込み、生きる力となります。
相手を思いやる事が出来るからこそ、心からの言葉に力が宿ります。
貴方が辛い時、掛けられて救われた言葉はどのような言葉でしたか?
今度は貴方が、心からの温かい言葉を周りにかけましょう。
三回目は『愛語施』についてお話ししましょう。
※※愛語施(あいごせ)※※
語辞施(ごんじせ)ともいう。
相手を思いやる、心からの温かい優しい言葉。いたわる言葉。励ましの言葉。
高価な物を与えられるより、貴方を思い、発せられた心からの言葉に救われた経験はありませんか?
心からの言葉は、何物にも代えられないものです。心の奥に深く入り込み、生きる力となります。
相手を思いやる事が出来るからこそ、心からの言葉に力が宿ります。
貴方が辛い時、掛けられて救われた言葉はどのような言葉でしたか?
今度は貴方が、心からの温かい言葉を周りにかけましょう。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
貧者の七施
貧者の七施。
二回目は『和顔施』についてお話ししましょう。
※※和顔施(わがんせ)※※
和顔悦色施(わがんえつじきせ)ともいいます。
優しい穏やかな顔、和やかな顔、慈愛に満ちた笑顔で人と接すること。
とても苦しい、辛い時に誰かの笑顔で救われた経験はありませんか?
心からの慈愛に満ちた笑顔には、周りを包み込む暖かさと、母性にも似た愛情が満ちあふれています。
精一杯の心からの笑顔は、周りの人に生きる力と活力を与えます。
二回目は『和顔施』についてお話ししましょう。
※※和顔施(わがんせ)※※
和顔悦色施(わがんえつじきせ)ともいいます。
優しい穏やかな顔、和やかな顔、慈愛に満ちた笑顔で人と接すること。
とても苦しい、辛い時に誰かの笑顔で救われた経験はありませんか?
心からの慈愛に満ちた笑顔には、周りを包み込む暖かさと、母性にも似た愛情が満ちあふれています。
精一杯の心からの笑顔は、周りの人に生きる力と活力を与えます。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
貧者の七施
『無財の七施』ともいいます。
人が人として幸せに生きるよう、思いやりの心を持つことが大切です。
お金が無くても、物が無くても、誰にでもすぐに出来ます。
必要なのは、思いやりの心です。
思いやりをもって施した布施は、『徳』となって自分に返ってきます。
ここでは、一つずつ紹介していきたいと思っております。
※※眼施(がんせ)※※
“げんせ”とも読みます。
優しい、温かいまなざしで、周囲の人々を見つめること。
言葉を発しなくても、その温かい慈愛に満ちた眼ざしで、人を勇気づけ、元気にし励ますことが出来ます。
あたたかい慈愛に満ちた心は、貴方の眼ざしによって相手の心に伝わります。
人が人として幸せに生きるよう、思いやりの心を持つことが大切です。
お金が無くても、物が無くても、誰にでもすぐに出来ます。
必要なのは、思いやりの心です。
思いやりをもって施した布施は、『徳』となって自分に返ってきます。
ここでは、一つずつ紹介していきたいと思っております。
※※眼施(がんせ)※※
“げんせ”とも読みます。
優しい、温かいまなざしで、周囲の人々を見つめること。
言葉を発しなくても、その温かい慈愛に満ちた眼ざしで、人を勇気づけ、元気にし励ますことが出来ます。
あたたかい慈愛に満ちた心は、貴方の眼ざしによって相手の心に伝わります。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
三十三観音まつり
●●●大阪みどりの百選●●●
☆本尊「こより観音」1年1度のご開帳☆
~観音さまにあなたの願いをかけてみませんか~
○●○三十三観音まつり○●○
5月3日(月・祝)
5月4日(火・祝)
5月5日(水・祝)
午前9時~午後5時【入山500円】
三十三観音「お砂踏み」とお写経
・除災招福
・交通安全
・健脚守護
・厄除け願懸け道場
「おみえ」と「幸福まもり」を授与いたします。
午前10時~4時
お布施(2,000円)茶菓接待あり
5月3日
午前10時より開白法要
5月5日
午後4時より結願法要
期間中
●萩の寺に集う人々(第3回)
・竹亭福良虎雄翁
・東の蘇峰、西の竹亭と称された大阪の新聞界の元老。
その寿碑が昭和16年当時一流の政・財界、文化人の代表1千人の拠金によって建立された。
その頴末と功績を偲ぶ。
●こより十一面観音前
・「こより写経」
●住職による法話
・(午前11時、午後1時)
●抹茶席
・(午前10時~午後4時・有料)
萩の寺に参詣奉納された、
中村天風先生の扁額公開
統一哲人天風「恭黙思道」とある
○百八の寿をまっとうされた永平寺貫首、宮崎奕保大禅師猊下により入仏落慶された尊い永代納骨の聖域です。
皆様からの納骨・永代供養を萩の寺が責任をもってお受けいたします。
○北摂最古のお砂踏み霊場
・天保2年に大阪の神商中西屋の発願により、多忙な人や体が弱いなどで全霊場を巡れない人のために設けられました。
各霊場のお砂を踏んで三十三体の観音さまを巡拝すると、三十三霊場を巡礼したのと同じご利益があります。
☆★交通安全
☆★健脚守護
☆★厄除け
☆★願懸け霊場
☆本尊「こより観音」1年1度のご開帳☆
~観音さまにあなたの願いをかけてみませんか~
○●○三十三観音まつり○●○
5月3日(月・祝)
5月4日(火・祝)
5月5日(水・祝)
午前9時~午後5時【入山500円】
三十三観音「お砂踏み」とお写経
・除災招福
・交通安全
・健脚守護
・厄除け願懸け道場
「おみえ」と「幸福まもり」を授与いたします。
午前10時~4時
お布施(2,000円)茶菓接待あり
5月3日
午前10時より開白法要
5月5日
午後4時より結願法要
期間中
●萩の寺に集う人々(第3回)
・竹亭福良虎雄翁
・東の蘇峰、西の竹亭と称された大阪の新聞界の元老。
その寿碑が昭和16年当時一流の政・財界、文化人の代表1千人の拠金によって建立された。
その頴末と功績を偲ぶ。
●こより十一面観音前
・「こより写経」
●住職による法話
・(午前11時、午後1時)
●抹茶席
・(午前10時~午後4時・有料)
萩の寺に参詣奉納された、
中村天風先生の扁額公開
統一哲人天風「恭黙思道」とある
○百八の寿をまっとうされた永平寺貫首、宮崎奕保大禅師猊下により入仏落慶された尊い永代納骨の聖域です。
皆様からの納骨・永代供養を萩の寺が責任をもってお受けいたします。
○北摂最古のお砂踏み霊場
・天保2年に大阪の神商中西屋の発願により、多忙な人や体が弱いなどで全霊場を巡れない人のために設けられました。
各霊場のお砂を踏んで三十三体の観音さまを巡拝すると、三十三霊場を巡礼したのと同じご利益があります。
☆★交通安全
☆★健脚守護
☆★厄除け
☆★願懸け霊場
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
花のこころ
「花の心で」
萩の寺住職村山廣甫
私の住職地である東光院は、古来より通称を「萩の寺」として一般の人々に愛され親しまれ、現在は新西国三十三カ所の第十二番霊場に推載されています。
私がこのお寺に赴任したとき、「戦時中に、“イモ畑にしろ”と近隣に非難されても、萩を守り続けてきました」という誇らし気な信者の方々の声を聞いて驚いたものでした。さらに、寺僧の中には、その気概を貫いて餓死した人もあったと知ったとき、驚きはさらに深刻さを増しました。
まゐり来(き)て
袖(そで)ぬらしけ里(り)
はぎのてら
波(は)な野(の)に余(あま)る
露(つゆ)の恵(めぐ)みに
霊場萩の寺の御詠歌です。
ここでは、“萩の花”こそ、このお寺のご本尊ですよと詠じられています。
“萩の花”は、古来、日本人の美意識を代表する花として、“秋の七草”の筆頭にあげられ、『万葉集』では、秋の部の三分の二が“萩の花”を詠んだ歌で占められています。生命力の強さ・復活を意味する花として、また、その集合・群生の美を命(いのち)として、別名鹿鳴(しかなき)草(ぐさ)や鹿妻(しかつま)草(ぐさ)とも呼ばれ、後世には、明治の文明開化を象徴する“鹿鳴館(ろくめいかん)”の命名にも、日本人の美と心の発露として登場しています。
当山を訪問された大本山総持寺(束京・鶴見)の佐藤俊明老師は、
小さな淋しい萩の花も
群生すれば目を奪う美を放つ
弱くて愚かな人間も
三人寄れば文殊さま
群生の萩の中の東光院
大乗会の護教に栄える萩の寺
と詩われました。
萩の花が、今も昔も、日本人の美意識を呼び起こして、その心に訴え続ける存在であることに変わりありません。
ところで、私は二十六歳のときから、このお寺の萩の植栽に携わってきました。おかげさまで今では、戦時中に寺僧たちが必死で萩の花を守った真意を正しく理解することができるようになりました。
東光院は、「今を去る天平七年(七三五年)に、行基菩薩がわが国最初の民衆火葬を執り行われた際、その荼毘(だび)に付された死者の霊(みたま)を慰(なぐさ)めるため、一体の薬師如来を造立し、そのご霊前に当時淀川水系に群生していた萩の花を手折って仏の供花としてお供えされた」という『建立縁起』を持つお寺です。
したがって、この由緒ある萩の花を守らねばならないという使命感があったことは否めないでしょう。しかし、その背後には、さらに自分が死を賭してまでという止むに止まれぬ気持ちがあったのです。
この止むに止まれぬ気持ちこそ、永い永い年月の間、萩の花を守り続けてきた“仏の籬(まがき)(垣根)〟であったと思われます。
夏(げ)書(が)きする
仏籬(ぶつり)の萩の
小筆かな
二月堂
歴代先人たちの萩作りに際しての艱難(かんなん)辛苦(しんく)を想うとき、先人たちがこの花に託した“願い”や“思い”が伝わってきます。その願いや思いを知ったとき、その心を相続して萩の花を守り育てていこうと、私の先輩たちも、戦時中の食糧難の時代において、汗して萩の畑作りにいそしんだのです。その姿は当時の人に、ドン・キホーテ、あるいは、それ以上の愚か者と映ったかもしれません。ではそれほどまでして、萩の花を守らせた先人たちの“願い”や“思い”とは一体何だったのでしょうか。
毎年、勤労感謝の日である十一月二十三日に行われる萩刈りの後、四月下旬につくしのような芽を出すまでの間、萩は切り株だけになってしまっていて、訪れる参詣者も「萩は何処にあるのですか?」と尋ねられるほど、寒々とした情景が続きます。秋のお彼岸のころに見せるうねりのような見事な萩の群生を知る人にとっては、予想もつかないことです。
しかし、確かに地中でその根は生きていて、次の開花を準備しているわけですから、冬眠のときお腹がすかないように、寒肥をやらねばなりません。また、この間に窮屈になった株は分けてやり、成長しやすくしてやります。芽が出てくると害虫がつかないよう、さらに発育のよいようにと肥料を入れたり、雑草を採ってやったりします。
まことに萩の発育は目覚ましく、五月には大人の腰までの高さに伸びたかと思うと、七月にはもう私の背丈を越すほどになっています。大宮人(おおみやびと)が“生(は)え木(ぎ)”と呼んで、この萩に生命の復活を見たのも、なるほどとうなづけるのです。
六月の梅雨は天の恵みですが、夏の間の水やりは、萩を作る人にとっては、毎日がたいへんな重労働となります。何しろ三千本もあるのですから…。
九月までの一年間に、除草はいうに及ばず、害虫の駆除をはじめ薬剤の散布、人間や動物からの被害から守ってやることなど、萩を咲かせる上での心配りは枚挙にいとまのないほどたくさんあります。このような、“仏籬(ぶつり)”に守られた萩は、やがて三メートルにも成長して、秋のお彼岸には、芭蕉の詠じた「白露をこぼさぬ萩のうねりかな」の風情を、私たちの目の前に展開してくれるのです。もちろん毎年萩の枝ぶりは異なるので、咲いた萩を風情あらしめるよう、専門の庭師による作庭も必要となります。このように、作(さ)務(む)(仏の願いを作(な)し務(つと)めること)を二十五年も不断に続けていると、いつの間にか萩の心が私の心に自然と伝わってくるのです。
「水がないので喉が渇いた」「お腹が減った肥料がほしい」「暑い、寒い、どこか、移りたい」「害虫や鳥がついばんで、とても痛い!」などと、萩は決して言いません。しかし、この萩が秋には必ず咲くことを信じ、咲く以上は立派に咲かせたいと念ずるとき、おのずと萩のこれらの願いや思いと自分の願いや思いが同一となり、その気持ちを推し量った行動をとらざるを得なくなります。作る人も作られる花も、同根の生命ある存在であることを痛切に感じるようになるのです。
私の赴任したころ、台風が何度もやって来ました。そのたびごとに、私は雨の中をずぶぬれになりながら、萩のために杭を打って廻ったことを覚えています。萩も私も同じ生命ある存在です。しかも、先人たちは、もっとたいへんな状況に置かれたときも、この萩を守ってこられた……。だから今、ここに萩がある――そのように考えたとき、止むに止まれずひとりでに体が動いていたのです。
萩の気持ち――言い換えれば、その“願い”や“思い”を推し量って、それに応えて行こうと努力するとき、今までこの萩を守ってこられた先人たちへの感謝の念が自ずと湧いてきます。また、それは必然的に現在の自分の努力の足りなさに対する反省と、報恩のまことを捧げる機会をもたらしてくれるのです。
東光院にとって、萩の栽培は、ただ単に花を植えて咲かせようというだけでなくこのように「花の心」を知った先人たちの願いや思いを嫡々(てきてき)相承(そうじょう)した仏作仏(ぶっさぶつ)行(ぎょう)そのものでした。それはご先祖をおまつりして、それを通して仏に出会うことと何ら変わるところのない尊い仏の修行だったのです。
ご先祖さまへの願いや思いを知った自分自身の「感謝」に始まり、自己の日送り所行に対する「反省」と、ご先祖さま、ひいては永遠の生命である仏さまのご恩に報いようとする「報恩」行が、ご先祖をおまつりしていく上での実践徳目であるなら、まさに、この何百年も経た萩を栽培していくことの中に、仏のいのちそのものが存在していたのです。物言わぬ花の心を知った仏作仏行―――これこそ、戦時中の寺僧が死を賭してまでこの萩を守り抜いた理由でした。しかも、萩の花は、今も昔も日本人の美意識を代表しています。この東光院の萩は、周囲をビルが接近して、決してよい自然環境とはいえない市街地の中で、先人たちの願いや思いを相続した善意の輪に護られて、その変わらぬ群生の美を今に伝えているのです。
本書では、ご先祖さまをまつるためのいろいろな道標を印しました。どれをとっても不合理なものはありません。死後の来世は、“ある”か“ない”かでなく、“信じる”か“信じない”かが大切なのです。信仰とはそういうものです。
どうぞ、勇気を奮って、信じて、このご先祖をまつる先人たちの深い智恵を相続していっていただければ幸いです。
萩の寺住職村山廣甫
私の住職地である東光院は、古来より通称を「萩の寺」として一般の人々に愛され親しまれ、現在は新西国三十三カ所の第十二番霊場に推載されています。
私がこのお寺に赴任したとき、「戦時中に、“イモ畑にしろ”と近隣に非難されても、萩を守り続けてきました」という誇らし気な信者の方々の声を聞いて驚いたものでした。さらに、寺僧の中には、その気概を貫いて餓死した人もあったと知ったとき、驚きはさらに深刻さを増しました。
まゐり来(き)て
袖(そで)ぬらしけ里(り)
はぎのてら
波(は)な野(の)に余(あま)る
露(つゆ)の恵(めぐ)みに
霊場萩の寺の御詠歌です。
ここでは、“萩の花”こそ、このお寺のご本尊ですよと詠じられています。
“萩の花”は、古来、日本人の美意識を代表する花として、“秋の七草”の筆頭にあげられ、『万葉集』では、秋の部の三分の二が“萩の花”を詠んだ歌で占められています。生命力の強さ・復活を意味する花として、また、その集合・群生の美を命(いのち)として、別名鹿鳴(しかなき)草(ぐさ)や鹿妻(しかつま)草(ぐさ)とも呼ばれ、後世には、明治の文明開化を象徴する“鹿鳴館(ろくめいかん)”の命名にも、日本人の美と心の発露として登場しています。
当山を訪問された大本山総持寺(束京・鶴見)の佐藤俊明老師は、
小さな淋しい萩の花も
群生すれば目を奪う美を放つ
弱くて愚かな人間も
三人寄れば文殊さま
群生の萩の中の東光院
大乗会の護教に栄える萩の寺
と詩われました。
萩の花が、今も昔も、日本人の美意識を呼び起こして、その心に訴え続ける存在であることに変わりありません。
ところで、私は二十六歳のときから、このお寺の萩の植栽に携わってきました。おかげさまで今では、戦時中に寺僧たちが必死で萩の花を守った真意を正しく理解することができるようになりました。
東光院は、「今を去る天平七年(七三五年)に、行基菩薩がわが国最初の民衆火葬を執り行われた際、その荼毘(だび)に付された死者の霊(みたま)を慰(なぐさ)めるため、一体の薬師如来を造立し、そのご霊前に当時淀川水系に群生していた萩の花を手折って仏の供花としてお供えされた」という『建立縁起』を持つお寺です。
したがって、この由緒ある萩の花を守らねばならないという使命感があったことは否めないでしょう。しかし、その背後には、さらに自分が死を賭してまでという止むに止まれぬ気持ちがあったのです。
この止むに止まれぬ気持ちこそ、永い永い年月の間、萩の花を守り続けてきた“仏の籬(まがき)(垣根)〟であったと思われます。
夏(げ)書(が)きする
仏籬(ぶつり)の萩の
小筆かな
二月堂
歴代先人たちの萩作りに際しての艱難(かんなん)辛苦(しんく)を想うとき、先人たちがこの花に託した“願い”や“思い”が伝わってきます。その願いや思いを知ったとき、その心を相続して萩の花を守り育てていこうと、私の先輩たちも、戦時中の食糧難の時代において、汗して萩の畑作りにいそしんだのです。その姿は当時の人に、ドン・キホーテ、あるいは、それ以上の愚か者と映ったかもしれません。ではそれほどまでして、萩の花を守らせた先人たちの“願い”や“思い”とは一体何だったのでしょうか。
毎年、勤労感謝の日である十一月二十三日に行われる萩刈りの後、四月下旬につくしのような芽を出すまでの間、萩は切り株だけになってしまっていて、訪れる参詣者も「萩は何処にあるのですか?」と尋ねられるほど、寒々とした情景が続きます。秋のお彼岸のころに見せるうねりのような見事な萩の群生を知る人にとっては、予想もつかないことです。
しかし、確かに地中でその根は生きていて、次の開花を準備しているわけですから、冬眠のときお腹がすかないように、寒肥をやらねばなりません。また、この間に窮屈になった株は分けてやり、成長しやすくしてやります。芽が出てくると害虫がつかないよう、さらに発育のよいようにと肥料を入れたり、雑草を採ってやったりします。
まことに萩の発育は目覚ましく、五月には大人の腰までの高さに伸びたかと思うと、七月にはもう私の背丈を越すほどになっています。大宮人(おおみやびと)が“生(は)え木(ぎ)”と呼んで、この萩に生命の復活を見たのも、なるほどとうなづけるのです。
六月の梅雨は天の恵みですが、夏の間の水やりは、萩を作る人にとっては、毎日がたいへんな重労働となります。何しろ三千本もあるのですから…。
九月までの一年間に、除草はいうに及ばず、害虫の駆除をはじめ薬剤の散布、人間や動物からの被害から守ってやることなど、萩を咲かせる上での心配りは枚挙にいとまのないほどたくさんあります。このような、“仏籬(ぶつり)”に守られた萩は、やがて三メートルにも成長して、秋のお彼岸には、芭蕉の詠じた「白露をこぼさぬ萩のうねりかな」の風情を、私たちの目の前に展開してくれるのです。もちろん毎年萩の枝ぶりは異なるので、咲いた萩を風情あらしめるよう、専門の庭師による作庭も必要となります。このように、作(さ)務(む)(仏の願いを作(な)し務(つと)めること)を二十五年も不断に続けていると、いつの間にか萩の心が私の心に自然と伝わってくるのです。
「水がないので喉が渇いた」「お腹が減った肥料がほしい」「暑い、寒い、どこか、移りたい」「害虫や鳥がついばんで、とても痛い!」などと、萩は決して言いません。しかし、この萩が秋には必ず咲くことを信じ、咲く以上は立派に咲かせたいと念ずるとき、おのずと萩のこれらの願いや思いと自分の願いや思いが同一となり、その気持ちを推し量った行動をとらざるを得なくなります。作る人も作られる花も、同根の生命ある存在であることを痛切に感じるようになるのです。
私の赴任したころ、台風が何度もやって来ました。そのたびごとに、私は雨の中をずぶぬれになりながら、萩のために杭を打って廻ったことを覚えています。萩も私も同じ生命ある存在です。しかも、先人たちは、もっとたいへんな状況に置かれたときも、この萩を守ってこられた……。だから今、ここに萩がある――そのように考えたとき、止むに止まれずひとりでに体が動いていたのです。
萩の気持ち――言い換えれば、その“願い”や“思い”を推し量って、それに応えて行こうと努力するとき、今までこの萩を守ってこられた先人たちへの感謝の念が自ずと湧いてきます。また、それは必然的に現在の自分の努力の足りなさに対する反省と、報恩のまことを捧げる機会をもたらしてくれるのです。
東光院にとって、萩の栽培は、ただ単に花を植えて咲かせようというだけでなくこのように「花の心」を知った先人たちの願いや思いを嫡々(てきてき)相承(そうじょう)した仏作仏(ぶっさぶつ)行(ぎょう)そのものでした。それはご先祖をおまつりして、それを通して仏に出会うことと何ら変わるところのない尊い仏の修行だったのです。
ご先祖さまへの願いや思いを知った自分自身の「感謝」に始まり、自己の日送り所行に対する「反省」と、ご先祖さま、ひいては永遠の生命である仏さまのご恩に報いようとする「報恩」行が、ご先祖をおまつりしていく上での実践徳目であるなら、まさに、この何百年も経た萩を栽培していくことの中に、仏のいのちそのものが存在していたのです。物言わぬ花の心を知った仏作仏行―――これこそ、戦時中の寺僧が死を賭してまでこの萩を守り抜いた理由でした。しかも、萩の花は、今も昔も日本人の美意識を代表しています。この東光院の萩は、周囲をビルが接近して、決してよい自然環境とはいえない市街地の中で、先人たちの願いや思いを相続した善意の輪に護られて、その変わらぬ群生の美を今に伝えているのです。
本書では、ご先祖さまをまつるためのいろいろな道標を印しました。どれをとっても不合理なものはありません。死後の来世は、“ある”か“ない”かでなく、“信じる”か“信じない”かが大切なのです。信仰とはそういうものです。
どうぞ、勇気を奮って、信じて、このご先祖をまつる先人たちの深い智恵を相続していっていただければ幸いです。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
降誕会・花まつり
お釈迦さまご生誕の地は、インドの北辺、ヒマラヤのふもとカピラバストゥです。
父はスッドゥダナ国王であり、母の名はマーヤー夫人と申します。
マーヤー夫人は懐妊されて、隣国の実家コーリー城へ帰る途中お疲れになり、しばし休まれたルンビニーの花園で産気づかれ、光り輝く太子がお生まれになりました。
紀元前5世紀の4月8日の朝まだきの事と仏典は伝えています。
そこには色鮮やかな小鳥たちが囀り、アソカ≪無憂樹≫の花が咲き乱れ、そのあまりの美しさ、香りのよさに、マーヤー夫人はその一枝を折ろうとなさいました。
その時急に産気づかれたのです。
過って35年前、私がお参りさせていただいた、アショカ王柱の建つ≪1895年英国のアレキサンダーカニンガム卿によって発見された≫ネパール王国・ルンビニーでの、マーヤー夫人堂内に安置された尊いお姿は、まさにこの瞬間を写し出したもので、強い感動を覚えました。
国王は大変に喜ばれこのみどり児は「シッダルタ」と命名されました。
お生まれになったまさにその時、シッダルタ太子は、東西・南北・上下の六方に七歩ずつ歩まれ≪地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という、迷いと苦しみの六道をのり越え、悟りの世界に踏み込むことを意味する≫、右手は天を≪上求菩提-自らは悟りを求める≫、左手は地を指して≪下化衆生-ひろく大衆の救済を願うことを表す≫、「天上天下唯我独尊」と叫ばれました。
後世に造像される菩薩道を象徴する有名な誕生仏のお姿です。
私の書斎には、1974年小生31歳のとき、このマーヤー夫人堂での般若心経の3辺読誦ののち、眉目秀麗な高位のチベット僧より頂いた極彩色の釈尊誕生画が掲げられています。
今も私のお葬儀させていただいた方の満中陰には、この記念すべき仏画のレプリカを霊前にお供えするのを例としています。
このシッダルタ太子こそ、後にお悟りを開かれ、釈尊と仰がれて、世界宗教の一たる「仏教」の開祖となられたお方です。
4月8日の花まつりでは、ルンビニーの花園を模した花御堂を白象に乗せ、そこに誕生仏を安座して、降誕の時、空から竜王がお祝いの甘露の雨を降らせたという伝説にならって、その誕生仏に甘茶を注ぎ、嬉々としてそのご誕生をお祝いするのです。
父はスッドゥダナ国王であり、母の名はマーヤー夫人と申します。
マーヤー夫人は懐妊されて、隣国の実家コーリー城へ帰る途中お疲れになり、しばし休まれたルンビニーの花園で産気づかれ、光り輝く太子がお生まれになりました。
紀元前5世紀の4月8日の朝まだきの事と仏典は伝えています。
そこには色鮮やかな小鳥たちが囀り、アソカ≪無憂樹≫の花が咲き乱れ、そのあまりの美しさ、香りのよさに、マーヤー夫人はその一枝を折ろうとなさいました。
その時急に産気づかれたのです。
過って35年前、私がお参りさせていただいた、アショカ王柱の建つ≪1895年英国のアレキサンダーカニンガム卿によって発見された≫ネパール王国・ルンビニーでの、マーヤー夫人堂内に安置された尊いお姿は、まさにこの瞬間を写し出したもので、強い感動を覚えました。
国王は大変に喜ばれこのみどり児は「シッダルタ」と命名されました。
お生まれになったまさにその時、シッダルタ太子は、東西・南北・上下の六方に七歩ずつ歩まれ≪地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という、迷いと苦しみの六道をのり越え、悟りの世界に踏み込むことを意味する≫、右手は天を≪上求菩提-自らは悟りを求める≫、左手は地を指して≪下化衆生-ひろく大衆の救済を願うことを表す≫、「天上天下唯我独尊」と叫ばれました。
後世に造像される菩薩道を象徴する有名な誕生仏のお姿です。
私の書斎には、1974年小生31歳のとき、このマーヤー夫人堂での般若心経の3辺読誦ののち、眉目秀麗な高位のチベット僧より頂いた極彩色の釈尊誕生画が掲げられています。
今も私のお葬儀させていただいた方の満中陰には、この記念すべき仏画のレプリカを霊前にお供えするのを例としています。
このシッダルタ太子こそ、後にお悟りを開かれ、釈尊と仰がれて、世界宗教の一たる「仏教」の開祖となられたお方です。
4月8日の花まつりでは、ルンビニーの花園を模した花御堂を白象に乗せ、そこに誕生仏を安座して、降誕の時、空から竜王がお祝いの甘露の雨を降らせたという伝説にならって、その誕生仏に甘茶を注ぎ、嬉々としてそのご誕生をお祝いするのです。
合掌
萩の寺事務局拝
萩の寺事務局拝
