萩の寺について
由緒と歴史
阪急電車敷設による移転と
沿線七福神(西国七福神)霊場の創設

明治43年、阪急電車の前身にあたる箕面有馬電気軌道が開業した(現在の宝塚線と箕面線)。その時盛んに歌われた「箕面有馬電車唱歌」に、当時の沿線風景が偲ばれます。
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東風吹く春に魁けて開く梅田の東口
往来う汽車を下に見て
北野に渡る跨線橋 -
業平塚や萩の寺 新淀川の春の風
十三堤の野遊びに
摘むやたんぽぽ五形花
宝塚線が開通し、沿線の宅地開発が進む大正元年、地域の繁栄を願う小林一三(こばやしいちぞう)翁の肝煎りで、別院があった豊中・曽根に寺基を移転します。町の核として有力な寺院を設置し、寺を精神的なよりどころとして住民の連帯感と沿線への愛着心を高めようという、一三翁の町づくり構想に基づく招聘でした。
さらに、当山を含む7つの社寺と阪急電鉄とで阪急七福神会を結成、協力して発足したのが「沿線七福神集印巡り」です。当時霊場第一番札所の毘沙門天は、中津の本院にまつられており、大正3年1月1日より開扉されました。ちなみに、宝塚少女歌劇団こけらおとし公演が行われたのも、同年元旦のことでした。